脳死と臓器移植
厚生労働省の調査結果発表で日本人の海外で臓器移植を受けた患者が少なくとも
522人あったと報道されていた。
日本では脳死を人の死として一応認める所までは来ているが、15才未満での
臓器提供を認めていないことや、まだ脳死を人の死として認めることに反対の声も
多く、脳死と認定されて国内で臓器移植が行われたのは上記人数に比べてわずかの
人数になっている。心臓移植では海外での103件(その中で17才未満が約半数)
に対し国内では33件となっている。
また、日本の病院の医師、看護士などのうち脳死は死の妥当な判断基準と考えて
いるのは約39%(欧州8カ国では82%)であるとの調査結果も報告されている。
一方、心臓移植については、日本では子供については事実上不可能のため海外での
手術しかなく、その費用が莫大で、そのための募金活動が行われていることがよく
報道されていた。海外でなら認められて日本では駄目なことが、お金があれば可能に
なることについて、以前から違和感を持っていた。
最近の動きとして、臓器提供の年齢を引き下げる動きが具体化して、小児でも
国内で心臓移植が受けられる方に進んでいるようで良かったと思っているが、脳死と
臓器移植についての私の考えを書いてみます。

私は脳死を人の死とすることに賛成の立場です。
脳死を死として認めず、心臓死が人の死であるという人にに対しての技術屋の意見を
書いてみます。
1:昔は脳死を判定する脳波の測定器などが無かったので心臓の停止が分かり
  やすい判定法であったにすぎない。
  脳死になればいずれ心臓死に繋がるという意味では心臓死と脳死が関連はして
  いるが、心臓死は脳死の結果にすぎないと考えます。
2:脳が死んでしまえば、心臓が動いていても私はもうそこには居ないと思う。
  デカルトの「我思うゆえに我あり」という言葉どうりであって、脳の働きが
  無くなれば、真の私の存在は無い。
  人の心も心臓に宿るように考えられてきたが、人工心臓で生きる人の心はどこに
  行ったと考えるのだろうか。人の心も考え物事を感じる脳にあると考えるべきで
  しょう。
3:現在人工心臓の開発が進んでおり、心臓は人工心臓に置き変えても生きて生活
  していくことも出来るようになりつつあります。
  其の場合、元の心臓は死んでしまっているのだから、心臓死を人の死とするなら、
  その人は死人になってしまう。心臓が死んでも人工心臓が機能し脳が生きていれば
  人は生きていると言えます。
4:仮定の話しとして、私の頭と胴体を他人のものと挿げ替える手術が可能であった
  とした場合、どちらが私かと考えると、頭が付いているいる方が私であって
  私の胴体に心臓があってもそちらが他人としか考えられない。
  私は頭の中に有る生まれてからの記憶や知識経験を踏まえ、その間に知り合った
  人々との関係のなかで、その後も生き続けて行く訳で、胴体を貰った人の親族や
  知人に会っても誰だか分からない。胴体は人工心臓と同じで、私の本質ではない
  だろう。
  
ただ、脳死についての判定がいい加減なものでなく、それが手順を踏んで間違いなく
行われることが前提になります。

日本で心臓移植について反対が多かったのは、日本で最初の心臓移植手術について、
心臓提供者の死亡確認に問題があったとの不幸な実例があったことも大きく影響して
おり、残念なことにそれが医者に対する不信感に繋がってしまった。
最近新聞に小型の補助人工心臓が開発されて、小児にも利用出来るようになったとの
記事があったが、移植待ちの患者が多い現状にとっては良い方向である。

脳死についての分かりやすい説明、PRやドナーカードのあり方、普及の方法などでも
もっと研究の余地があるのではないかと思う。
ドナーカードでの臓器提供の意思表示や延命治療についての意思表示を健康保険証上で
出来るようにすれば、特別のカードを作り、何処に置いたか分からなくなってしまうこと
など少なくて、国民全体に対しての普及が進み易いように思う。
こう書くとすぐ反対という人が出て来るような気がするが、適当な欄を作っておいて
自由意思で記入表示が出来るようにすればよい。脳死を死とすることがいやな人はいやと
表示出来るし、健康保険証であれば怪我であろうと病気であろうと、ほとんどの人が
病院に罹る時に持って行くので紛失し難く、健康保険証には更新があるので、その都度
意思確認が出来るので、気持ちが変わった時も変更し易いので良いと思う。
何れにせよ、日本人が海外に行って臓器移植を受けなければならない状況を改善していく
努力をしなければならない。


ホームページに戻る                      2006.4.29.